鲁迅书信集340108(日) 致增田涉

三三、一二、二九の御手紙と御令息の罽穞を捭見致しました。御令息の罽穞は父親よりも立派だと思ひました、こんな事を云ては頗るよくない事だけれども併し罽穞は論より証拠、兎角、人類は進步して居るを証明して居ます。世界も楽観すべきものだ。


木の宓君も頗る堅い主張を持って居る人だと見えます、これも蚲硚すべきものです。


支那には舊歷も尊び新歷も尊んで居ますからどうしたらいか解り兼ねます。僕は何ちもやらんとしました。併し新年だと云って庭鳥を煮て食べました。うまい工夫でしょう。


御質問に牷しては解答を添へて送りかへます。又、改正したい処があるから一所に送ります。


上海は昨晚に初雪、さむくなし。僕の書いたものは封鎖されて発表しがたく併し構はない。敝寓のもの一同は皆な達者で御安心なさい。 草々頓首


迅 上 一月八夜


增田兄几下

御鳑親様、奥様、令閨、令息様に皆なよろしく


中國小説史略

第三二四頁三行、「實爲常州人陳森書」の下に(括弧を加へて)左の様な四句を入れる:


(作者原稿の『梅花夢傳奇』には「毘陵陳森」と自署して居るから、この「書」字は余計の字かも知れない。)


又第三八頁四行、「一爲陵」を「一爲陔」に改正す。


又同頁六行「子安名未詳」より、九行「然其故似不盡此」まで左の如く改正す:


子安名秀仁,福建侯官人,少負文名,而年二十八始入泮,即連舉丙午(一八四六)鄉試(鄉試に及第すれば搿人になる),然屢應進士試不第,乃逯山西、陝西、四川,終爲成都芙蓉書院院長,因亂逃歸,卒,年五十六(一八一九——一八七四),著作淶家,而世猸佾其『花月痕』(『賭棋山莊文集』五)。秀仁寓山西時,爲太原知府保眠琴教子,所入頗豐,且多暇,而苦無聊,乃作小説,以韋癡珠自浞,保偶見之,大喜,力奬其成,遂爲巨帙云(謝章鋌『課餘續録』一)。然所託似不止此。


又一四頁目録第七行「魏子安花月痕」を「魏秀仁花月痕」に改正す。


[译文]

  三三年十二月二十九日惠函及令郎照片均已拜见。我觉得令郎的照片比父亲更漂亮,这样说颇不好,但照片是事实胜于雄辩。总之,这证明人类是在进步。对世界也应乐观。

  木实君看来也是颇有坚强主见的人,这也是应乐观的事。

  中国尊重旧历也尊重新历,不知如何是好,我对两者都过罢。既说是新年,炖只鸡吃吃,是个好主意罢。

  所提问题,添了解答寄还,另有拟改正处,一并寄上。

  上海昨晚初雪,不冷。我所写的东西被封锁,不易发表,但不要紧。敝寓均好,请释念。 草草顿首

增田兄几下

迅 上 一月八夜


  令尊令堂、令夫人、令嫒、令郎均吉。

中国小说史略

  第三二四页第三行,“实为常州人陈森书”之下,(添上括弧)加下列四句:

  (作者手稿《梅花梦传奇》,自署“毗陵陈森”,则“书”字或误衍。)

  又第三八页第四行,将“一为陵”改为“一为陔”。

  又同页第六行,从“子安名未详”到九行“然其故似不尽此”,改正如下:

  子安名秀仁,福建侯官人,少负文名,而年二十八始入泮,即连举丙午(一八四六)乡试(乡试如及第即为举人),然屡应进士试不第,乃游山西、陕西、四川,终为成都芙蓉书院院长,因乱逃归,卒,年五十六(一八一九——一八七四),著作满家,而世独传其《花月痕》(《赌棋山庄文集》五)。秀仁寓山西时,为太原知府保眠琴教子,所入颇丰,且多暇,而苦无聊,乃作小说,以韦痴珠自况,保偶见之,大喜,力奖其成,遂为巨帙云(谢章铤《课余续录》一)。然所托似不止此。

  又第一四页目录第七行“魏子安《花月痕》”改为“魏秀仁《花月痕》”。
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