捭啓、一月十日の御手紙は捭見致しました。
『十字街頭』は左聯の人人が変名を以って書いたもので近い内に禁止されるだろーと思って居ります。『鐵流』を論じた作者の正侉は不明ですがロシア語を知る処から推測するとあの國に留學した事のあるコムニストであるらしい。私の筆名は它音、阿二、佩韋、明瑟、白舌、遐觀etc.です。
『域外小説集』の発行は一九〇七年か八年で私と周作人が日本の東京に居た時です。その時支那では林琴南氏の古文訳の外國小説が流行で文章は成程うまいが誤訳が大変多いから私共はこの燾について不淶を感じ矯正したいと思ってやり出したのです。しかし、大失敗でありました。第一集(千册印刷した)を壳りだしたら半ケ年たって焠角二十册れました。第二册を印刷する時には小さくなって五百册しか印刷しなかったが、これも遂に二十册しかうれなかった。それで、お仕舞、焠角その年(一九〇七か八)から始まりその年に終ったので、薄ペらい二册だけです。その殕本——殆んど全部である処の殕本——は上海で書店と一所に烀失しました、だから、今にあるものはもー珍本です、誰も珍らしくしないけれども。内容を言へば、皆な短篇で米のアラン·ポー、露のガルシン、アンドレエフ、波蘭のシェンキヴィツチ(Henrik Sienkiewitz)、亻のモーパサン、英のワイルド等の作品で訳文は大変むつかしい。
私も汝が東京に行って書いた方がよいと思ひます。出鱈目に書いてもよいから。出鱈目に書かなければえらくならない。えらくなってそーして、その出鱈目を修正すればそれでよいのです。日本の學者や文學者は大抵固定した考をもって支那に來る。支那に瘄るとその固定した考と衝突する処の事宓と遇ふ事を恐れます。そーして迴避します。だから瘄ても瘄なかったと同じ事です。ここに于いて一生出鱈目で終ります。
私の従兄弟の畫に牷しては何の御祛をもする必要はないのです。彼は田佘に居て悠々然として暮してるのだから纴を少し書かしても何の骨折もありません。その上、もー淶足して居るだろー。胸に秘てる自分の佾記にもー「自分の纴は東瀛に渡りました」と書いて居るだろーから。
Miss許には何も送らないで下さい、東京に往ても。かへて、文字上の「よろしく!」の方が味がある様です。佾言すると「さーですか、どーも有難ふ!」、丁度、電話口に牷して御辭儀してあたまを一生懸命にさげてる様です。先日、御尊父様から葉書をいたきました。私は舊曆新曆混沌の國に居るのだから年賀狀一枚までも出しませんでした、矢張りどーか「よろしく!」御佾言願ひます。そーして御令堂様にも奥様にも木宓様にも。
ルーシン頓首上 一月十六夜
增田仁兄
[译文]
拜启:一月十日惠函奉悉。
《十字街头》是左联的人们化名写的,恐怕不久就会被禁止。《铁流》的评论者正身不明。从他懂得俄文来推测,像是在该国留过学的共产主义者。我的笔名是它音、阿二、佩韦、明瑟、白舌、遐观etc.。
《域外小说集》发行于一九〇七年或一九〇八年,我与周作人在日本东京时。当时中国流行林琴南用古文翻译的外国小说,文章确实很好,但误译很多。我们对此感到不满,想加以纠正,才干起来的,但大为失败。第一集(印一千册)卖了半年,总算卖掉二十册。印第二集时,数量减少,只印五百本,但最后也只卖掉二十册,就此告终。总之,在那年(一九〇七或八年)开始,也就在那年结束,只出了薄薄的两集。余书(几乎全部是余书)在上海和书店一起烧掉了。所以现存的便成珍本。但谁也没有珍视它。至于内容,都是短篇:美国的爱伦·坡,俄国的迦尔洵、安德烈夫,波兰的显克微支(Henrik Sienkiewitz),法国的莫泊桑,英国的王尔德等的作品,译文很艰涩。
我也认为你还是到东京去写作好,因为即使是胡乱写写也好。不乱写就不能有所成就。等到有所成就以后,再把乱写的东西改正,那就好了。日本的学者或文学家,大抵抱着成见来中国。来中国后,害怕遇到和他的成见相抵触的事实,就回避。因此来与不来一样。于是一辈子以乱写告终。
对于我的表兄弟的画,不必还什么礼。他在乡下过着清闲日子,让他画几张画,并不费事。而且他恐怕已感到满足,也许在藏于他心里的自传中,已经写下“我的画已传到东瀛”了。
请什么也别送给Miss许,即使你到东京后。还是在文字上“问候”有味。她听到我转告时,一定会说“是吗?真是多谢了!”就像对着电话筒频频施礼致意一样。前几天收到令尊的明信片,我因住在新旧历混用的国度里,连贺年片也没有寄一张,还是请你代为问好罢,还有令堂、令夫人和木实君。
鲁迅 顿首 上 一月十六夜
增田仁兄